2024年度をめどに新紙幣が発行されますが、五千円札の顔は津田梅子が描かれることになります。
津田梅子は、女性が社会進出に必要な実用的な教育に力を注いだ立役者で、その功績を別記事でご紹介していますが、津田梅子に旦那さんや子どもがいたのかを知っている人は少ないのではないでしょうか?
支えてくれた旦那さんとか居そうですよね!
津田梅子の人生を、有名なエピソードなどを交えてご紹介していきます!
津田梅子の生い立ちとは?
津田梅子は津田仙・初子夫妻の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に生まれました。
1871年、仙は明治政府の事業である北海道開拓使の嘱託となり、津田家は麻布へ移る事になります。
父が北海道開拓使の仕事をすることで梅子の人生は大きく変わりました。
それは開拓使次官の黒田清隆との出会いがあったからです。
黒田清隆は女子教育にも力を入れていた人物で、仙は黒田が企画した女子留学生に梅子を応募させました。
そして同年、岩倉使節団に付いて渡米することに。
このときの梅子の年齢は、なんと最年少の満6歳でした。
6歳から親元を離れ外国に行かせるなんて、私だったら心配でムリですけど、ご両親の判断とか、本人の行くという意思は、やはり偉人になるための素質なんでしょうか?
梅子が留学時代と帰国した後にやったこと
アメリカのジョージタウンで暮らすことになった梅子。
日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられ11年間過ごしました。
英語を含む、ラテン語やフランス語などの語学や、ピアノや英文学、心理学などを学びます。
そんな中、1881年に開拓使から帰国命令がでます。
私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートに在学中であった山川捨松と梅子は延長を申請し、1882年7月に卒業し、11月には日本へ帰国しました。
その時、梅子は幼少からの長い留学生活で日本語能力は通訳が必要なほどになっていたというエピソードがあります。
また、当時の日本はアメリカと違い、「女性が学問を身につけるのは結婚のため」という風潮が当たり前で、女性が社会で活躍出来る文化ではないことに驚いたようです。
帰国後は伊藤博文の勧めにより、華族女学校(現在の学習院女子中・高等科)で英語教師として3年余り勤めますが、あまり馴染めなかったようです。
そんなとき、留学時代の友人アリス・ベーコンが来日し、彼女に勧められて再び留学することを決意します。
梅子が再び留学し、帰国後にやったこと
父の仙の知人の仲介で留学希望を伝えて学費免除の承諾を得て、2年間の留学の許可をもらえました。
1889年7月に再び渡米します。
そして梅子は、フィラデルフィア郊外のリベラル・アーツ・カレッジ、セブン・シスターズ (大学)のひとつであるブリンマー大学で生物学を専攻します。
なんと3年間の課程を切り上げて終了させ、留学2年目には蛙の発生に関する論文を執筆しています。
また、使命であった教授法に関する研究は州立のオズウィゴー師範学校で行いました。
梅子に留学を勧めたアリス・ベーコンは日本習俗に関心を持ち、日本女性に関する研究をしていたのです。
このことが、梅子が日本の女性教育に関心を持つきっかけになったと言われています。
梅子は留学を一年延長すると、日本女性留学のための奨学金設立を発起し、公演や募金活動などを行うようになりました。
大学からはアメリカへ留まり研究を続けることを勧められますが、それを辞退し、1892年8月に帰国。
そして帰国した津田梅子は、以前勤めていた華族女学校で再び教師となります。
そのかたわら、女子高等学校、女子大学などの設立に協力し、自身も1900年に「女子英学塾」(のちの「津田塾大学」)を開き、身分の区別のない女子教育を始めるのです。
しかし、梅子は塾の創業期に健康を損ない、塾経営の基礎が整うと1919年1月に塾長を辞任し、鎌倉の別荘で長期間闘病します。
そして、1929年に脳出血のため64歳で生涯に幕を閉じます。
あまりにも短命で壮絶な生い立ちだったのですね!!
津田梅子に支えてくれる夫はいたのか?結婚について
波瀾万丈の生涯を送っていた津田梅子ですが彼女を支えてくれる旦那さんなんかはいたのでしょうか?
じつは彼女は生涯独身を貫いています!
津田梅子の性格はおおらかでよく笑う女性だったようです。
そんな梅子ですから、いくつもの縁談が舞い込んできました。
しかし、結婚の話になると、機嫌が悪くなり、結婚の話を持ち出さないように言ったようです。
結婚に対しては全く興味を示しませんでした。
どうやら日本の結婚観に嫌気が刺していたようです。
アメリカの文化に触れていた津田梅子ならではの選択ですね!!
生涯独身だけど子供はいた!?津田梅子の養子について
津田梅子は結婚していないから直系の子供はいないのですが、甥の津田眞を養子として迎え入れています。
そして、津田眞の娘であるあい子さんは、西郷隆盛の曾孫である西郷隆晄と結婚したのだそうです。
そんな、あい子と西郷隆晄の間に生まれた次男の津田直は写真家となり、2000年に祖父である津田眞と養子縁組となって津田家当主を継いだそうです。
津田梅子もすごい人ですが養子も孫も凄い人たちだったんです !!
「血筋は争えない」と言いますが、こういう事なんでしょうね。

津田梅子生い立ちのまとめ
今回は以下の内容をお伝えしました。
・津田梅子は岩倉使節団と共に渡米することとなりますが、この時の年齢は留学生最年少の6歳だった。
・津田梅子は1900年に「女子英学塾」(のちの「津田塾大学」)を開き、身分の区別のない女子教育を始める。
・津田梅子は生涯独身を貫いた。
・結婚はしていなかったが甥の津田眞を養子に迎えていて、次男の津田直は写真家となり2000年に祖父である津田眞と養子縁組となって津田家当主を継いだ。
津田梅子が、女性が社会に出て役に立てる社会の基礎を築いてくれました。
壮絶な人生の中、時には頼れる人が欲しい時もあったと思いますが、なぜ生涯独身を貫いたのか興味深いです。
現代は女性も社会で活躍できて、生涯独身を選ぶ女性は珍しくありません。
そんな今の女性達の活躍を見て、津田梅子はきっと喜んでくれているんだろうなぁ。
そんな感じがしてなりません。
アイキャッチ画像:出典:ウィキメディア・コモンズ・公表日:1956年(昭和31年)12月31日までに公表(著作権消滅済)