一万円札と言えば福沢諭吉ですね。
しかし、この常識は2024年から通じなくなります。
2019年4月9日に、新しい一万円札の顔は「渋沢栄一」になることが発表されました。
渋沢栄一は日本を代表する経済人として紙幣の肖像の候補者として数回挙げられていましたが、やっと紙幣の顔になるワケですね!
紙幣の顔になるほどですから、かなりの功績を残した偉人ということになりますが、どのような功績を残したのかご存じでしょうか?
今回は渋沢栄一がどんな人なのか、生い立ちや功績について分かりやすくまとめてみました。
渋沢栄一の生い立ちについて!
渋沢栄一は幕末から明治へと、政治・社会の激動激変の時代に生きた人です。
流れに身を任せて生きてきたような印象もありますが、結果的に幸運の波に乗り、輝かしい数多くの功績を残しています。
そんな渋沢栄一はどのように生まれ、どのような人生をおくったのでしょうか?
渋沢栄一は1840年に現在の埼玉県深谷市で生まれました。
渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕の兼営に加え、米や麦の生産も行う豪農でした。
父にしつけられ、幼い頃から読書に励み、7歳の時には既に四書五経や日本外史を学ぶほどでした。
また、同時に剣術も習い、21歳の時には北辰一刀流の千葉栄次郎に入門して剣術に励むかたわら、勤王志士(きんのうしし:天皇を守る志のあるもの)と交友を結びます。
その影響もあり尊王攘夷の思想に染まりました。

尊王攘夷とは、天皇を第一に考え大切にするという『尊皇』の考え方と、外国人を追い出そうという『攘夷』の考え方が一つになったもの
で、当時としては比較的過激な思想です。
その思想により、1863年に彼は討幕のために「高崎城を乗っ取る」という計画を企てました。
これは、高崎城で武器を調達して横浜の異人館を襲撃しようという計画ですが、あまりに激しい考えであったため、尊王攘夷論者からも非難を浴び中止することになります。
その後、父に勘当されて、京都に出た栄一は、平岡円四郎の推挙によって一橋(徳川)慶喜に仕えることになります。
さらに1866年に、徳川慶喜が将軍になると自身は幕臣となりました。
そして同年のパリ万国博覧会に将軍の名代として出席する徳川昭武に付いて渡欧します。
そこで、日本とは違う先進的な産業や軍備を視察し、新知識を学んでいきました。
帰国後すぐに、フランスで学んだ株式会社制度の実践などのために、1869年に静岡で商法会所を設立します。
そしてその年の10月には、大隈重信に海外渡航の経験を買われ大蔵省に入省することとなります。
ここで民部省改正掛を率いて改革案の企画や立案をしたり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に尽力します。
大蔵官僚としても、近代日本経済の礎を造り上げたのです。
しかし、その大蔵官僚としての仕事も長続きはしませんでした。
入省してわずか4年後の1873年、予算編成を巡って大久保利通や大隈重信と対立し、事実上大蔵省を率いていた井上薫と共に退官することになります。
退官後まもなく、大蔵省時代に設立に貢献した第一国立銀行の頭取に就任しました。
これ以後彼は、実業界に身を置くこととなります。
ここから、前項で挙げたような数々の輝かしい功績を残し、「日本資本主義の父」と呼ばれるようになります。
そして、1931年、92歳という大往生で生涯に幕を閉じました。
死因は、大腸狭窄症とされています。
渋沢 栄一がやったことって?功績について!
さて、ここから渋沢栄一のやったこと・功績について見てみましょう。
彼の偉業の数はとても多く、明治維新を経済の面から支え、第一国立銀行や東京証券取引所の設立や経営などにも携わった偉大な人物です。
最初は倒幕派のはずだったのになぜか幕臣となり、水戸藩のご子息のお供でフランスに行くことになります。
その海外への渡航経験を経て大蔵省の役人となります。
その後大蔵省を辞すわけですが、日本で最初の銀行である、第一国立銀行の設立に携わり、完成した後はその銀行の頭取(銀行の代表者)となっています。
この第一国立銀行こそ、現在のみずほ銀行です!
第一国立銀行以外にも様々な地方銀行や現在の三井住友銀行の設立にも携わっています。
また、銀行だけではなく、現在のJR東日本である日本鉄道、京阪電気鉄道などの鉄道会社や、麒麟麦酒やサッポロビール、大日本精糖、帝国ホテル等の有名企業を含め、生涯で500もの企業の設立に携わったと言われています。
日本経済の発展に貢献した渋沢栄一は「日本資本主義の父」と呼ばれ称されています。
また、渋沢栄一は企業の設立だけでなく、社会事業や教育事業にも貢献しています。
例えば現在の一橋大学である商法講習所は、実業界で活躍する人材を要請するための日本初の教育機関とされています。
現在の日本女子大学の前身である日本女子大学校の設立にも携わり、校長も務めていたといいます。
また、身寄りのない子供らを育てる養育院の院長も務める等の社会事業もしていました。
大学の設立以外にも社会事業にも貢献し、彼が生涯で関わった教育・社会事業の数は600以上にもなるそうです。

こんなに行動力のある人はなかなかいませんよね。
まさにお札の顔にふさわしい、輝かしい功績を持った人物だと思いました。
もっと知りたい!渋沢 栄一 の著書や本はあるの?
この記事をここまで読んでくれた方の中には、渋沢栄一についてもっと知りたいと思った人も居るのではないのでしょうか?
渋沢栄一が書いた著書の他に、著書を現代風に分かりやすくしたものもあります。
いくつかご紹介しましょう。
1.渋沢栄一自伝
本書は彼の自伝になります。
彼が農民として生まれてから昭和初期までの青春時代が描かれています。
この本を読むととにかく国のために努力したかが分かります。
流され人生を歩んでいるように自信の生き様を描いていますが、ありとあらゆるものに興味を持つ性格が彼をこれほどの人物にしたのだと思わされます。
また、当時がどういう社会だったかを知りたい人にもお勧めの一冊と言えるでしょう。
2.現代語訳 論語と算盤
この本は渋沢栄一自身が著した「論語と算盤」を守屋淳が現代語に翻訳したものです。
渋沢栄一が記した著書をそのまま現代語訳したものですから、彼の考えから生き方まで、全てが詰まっています。
お金を儲けることにいやらしい印象を持ってしまう日本人に向けて、対照的な価値観にある「徳」と「金」の追求をいかに両立させるかが論じられています。
現代の日本においても通用するであろう経営論です。
また、巻末には渋沢栄一の経歴などの資料も掲載されてるので、彼のことについて」学びたい人にとって最適な一冊となるでしょう。
渋沢栄一はどんな人?まとめ
今回は以下の事をお伝えしました。
・明治維新を経済の面から支え、第一国立銀行や東京証券取引所の設立や経営などにも携わった渋沢栄一は「日本資本主義の父」と呼ばれている。
・渋沢栄一は農民の生まれでありながら、数々の偉大な功績を残している。
・渋沢栄一について知るのにオススメの本は「渋沢栄一自伝」「現代語訳 論語と算盤」が挙げられる。
渋沢栄一がいなければ日本の経済がここまで発展することは無かったかもしれません。
まさにお札の肖像画にふさわしい人物と言えるでしょう。
アイキャッチ:出典:ウィキメディア・コモンズ・公表日:1956年(昭和31年)12月31日までに公表(著作権消滅済)